私の教育史
出生〜高校時代

大学に入ってから履修した最初の教職の授業の「教育史」で、自分の教育史を語れという課題が出ました。この文章は、その私の教育史に、大学4年生で卒業間近になった私が加筆と修正を加えたものです。

いろいろな人に読んでもらいたいので、「真面目に、しかし楽しく」というコンセプトで書きたいと思います。
人名・団体名は、インターネットに掲載する都合上、イニシャルで表記し、極力固有名詞を使うことを避けています。(どこか、推測できる程度にとどめました)

歴史と言うのは主観的な物で、事実を私の視点と言う恣意的なもので見ていますから、そこのところはご注意を・・・。

幼年時代 −私のあけぼの−
私は九州の鹿児島県某市で生まれ、その後福岡県に4ヶ月、宮崎県に4ヶ月、また福岡県の某所に6ヶ月、またまた鹿児島の別の場所で2年ほど住み、今度は佐賀県に1年在住していた。このように幼年期はコロコロと住居が変わって行っていたようであるが、当の私は佐賀県以降のおぼろげな記憶しか持ち合わせていない

このころの私は結構なお母さんっ子で、ちょっと母親がそばを離れると窓をわざわざ開けて呼び出すようなまねをしていたそうだ。外に出てもお友達とはあまり遊ばなかったそうで、今考えると大変お恥ずかしい。

そんなこんなで阿呆なまねをやらかしていたので、幼年期の私は結構叩かれていたらしい。だから、結構しつけは厳しいほうだったと思う。・・・の割には、私は結構馬鹿なことをしていたような気がするのだが・・・。親でさえも忘れてしまったことなので私の歴史のなぞということにしておいてほしい。(笑)

その後、1990年10月にただいま在住の兵庫県の某市(ヒント:大阪府に最も近い)に移り住んだ。ここからの歴史は結構覚えているのでじゃんじゃん語って行きたい。

尚、以降の歴史を通して母親も父親も私に結構厳しく当たる。以下の項目ではあまり親の事に触れていないが、学力的に絶頂期でも不調でも結構がみがみ言ってきた。これは今でも継続中であるが、私が相談をすれば話を聞いてくれるし、なんだかんだで見守ってくれる大事な存在であることは記述しておく。

幼稚園年中〜年長 −外の世界へ−
幼稚園に通うようになってだんだん慣れてくると、一緒に遊ぶお友達が当然のことながらほしくなる。
幼稚園は親には「子供を預ける場所」という感じだろうが、預けられる当人たちにとっては「お友達や先生と一緒に歌ったりしてお遊びする場所」という位置づけであるが、当時の私は(というか、今もだが・・・)結構ドジで、怒られた記憶が強い。

特に年長のときの文字を書いたり、折り紙をやるのが地獄であった。文字をなぞったり写したりは出来たのであるが、自分の名前を何も見ないで書くというのは苦手中の苦手で、文字がわからずめちゃくちゃ書いて結構先生に注意された。これまた個人的に黒歴史にしたい事項(注1)である。
ただ、お友達が文字を教えてくれたのが救いであった。(協力してくれた子に感謝!)このころは友達と一緒に遊んだりする機会が結構あって、どんな子でも友達になりたいと考えていて、結構人懐っこかったと思う。

さて、「三つ子の魂百まで」ということわざがあるが、このころから私は結構アニメが好きで勇者シリーズ(注2)などを結構見ていた。今も結構なアニメ(特に「ガンダム」などのロボット物)好きなのでこの言葉は的をえていると思う。思えばオタク道に転びだす予兆だったのかも
注1 簡単に言うと、過去の忘れてしまいたい忌まわしい記録のこと。元ネタは∀ガンダム。

注2 1990年の「勇者エクスカイザー」から1997年の「勇者王ガオガイガー」まで続いたロボットアニメシリーズの総称。私は中でも初期3作(「勇者エクスカイザー」、「太陽の勇者ファイバード」、「伝説の勇者ダ・ガーン」)の世代であった。この初期3作は子供向けとしては非常に良い出来とファンには言われており、「命の大切さ」や「他者への思いやり」といったものがメインメッセージとしてこめられている。昨今のいじめの問題や少年による人殺しは子供たちに、この2つが欠けているのではないかと私は考えているので、教員になったときに、これらを生徒に教えたいと思う次第である。

小学校低学年時代 −勉強のあけぼの−
1992年に市内の市立小学校に進学。幼稚園の友達と新しい子は半々でクラスメンバーは2年生になるまで変わらなかった。
人懐っこい性格も、なぜか1年生の1学期最初では発揮されず先生に「暗い性格」といわれてしまったのを覚えている。今(大学4年生)になって思うと、環境の変化がそうさせたのだと思う。その後、親が面談のときに先生が「暗い性格」と言っていたと、私に伝えた後、勇気を出して人懐っこい性格を取り戻させた。

このころの私の学業成果はどうだったかというと、あまり出来のいいほうではなかった。算数が得意だった母親にいくら足し算引き算教えられても一向に覚えることが出来ず、文字も汚ければ、整理整頓悪いというだめだめぶりであった。(後者2つは現在も継続中)といっても、2学期以降は人並みに出来るようになったので良しとしたいところ。宿題もこのころは結構やっていたほうであった。

幼稚園年長のころから私は、毎週木曜日に英語教室に1時間だけ通っていた。やることはほぼお遊び感覚で、英語をやるだけで6年生までで、中学2年までの文法事項(過去形まで)を習っていた。これがなかなか馬鹿にできないもので、中学校で習わなくて知名度が低いフォニックスも、わけがわからぬまま体で覚えてしまっていて、 中学校のころ、みんなが苦戦している中さっさと単語を覚えられた。このときにやっておいて正解だったことその1がこれだろう。

小学校時代全般に言えるが、私は結構発表するほうであった。解ける問題は大体、手を上げていたし本読みも積極的にやっていたほうだったと思う。このスタンスはこの先も継続されていたので、結構勉強に身が入っていったほうだと思う。このおかげで、晩年(?)には結構いい成績が取れた。

小学校3〜6年時代 −学力不振と転機−
小学校3年生のとき、我が家にスーパーファミコンが登場した。当時の子なら当然のことながら、ゲームにはまりまくりその結果、私はなかなか宿題をしなかった。特に、4年と5年の時のこの日までに漢字ノートを終わらせてくるように、という類の宿題をまったくしなかった。提出する日がまだまだあるということでサボっていたのが原因だろう。
懇談の時に、このことについて先生に怒られたらしく、ひどい目にあった覚えがある。

・・・ということで、この時代は学力面においての暗黒期という分類だろう。漢字の書き取りを期限に間に合うようにやっていなかったので、この時代の私の国語の成績はかなり悪かったかな。先生方から見ても私は不良学生だっただろう。(笑)

しかし、暗黒時代と言えども必ず終わりは来るもので5年生の末から火曜日と金曜日に近くの家でやっている算数塾に通いだした。(一応、そろばん教室にも行っていたが、5年の最初で塾がつぶれた)どういうことをやっていたかというと、小学校1年生からのやり直し・・・

1桁の計算・掛け算・割り算などは瞬殺して順調に基本からやり直し、落ち気味だった成績も上がっていった。6年中期からは、難度の高い(というか学校で習ってないので解けない)鶴亀算とかをやっていた。漢字も習ったので4,5年の時のブランクはあっという間に返上。

6年生(1997年)になると、「良い子ちゃん道を貫く」というのが信条となり、宿題も確実にこなすまさによい子ちゃんであった。(自画自賛?)まず、この方面にシフトしたのは先生に怒られるのがしんどくなったというのがある。どうも私は、子供のころから他人に言われた事を真に受けるタイプで、怒られている自分が嫌になっていった。担任の先生も変わったことだし、怒られないようにするかと言う事で、この方面にシフトしたのだと思う。

ただ、本来はマジメで純粋な性格だったからなのか、この方面にシフトしても自分を偽ることはなかった。一歩間違うと、大変な方向に陥りやすい信条だが、曲がることなくいられるのはこの性格のおかげだろう。そんなこんなで、学力面での暗黒期は終焉を迎えることになる。

しかしながら、それまでまじめにやっていた周りの子たちは逆に反抗期に入ってしまったらしく、先生に反抗しまくる子と化してしまった。小学生と言うのは大体、先生の言う事は親の言う事よりもきついと思っているころの時期で、そこから脱し切れていない私には衝撃的であった。

私のクラスの子は影で悪口を言う程度だったが、隣のクラスの状況は散々たるもので、絶えず騒いでいて、所謂学級崩壊状態だった。第2回の教育史の授業で小学校4年生が授業を荒らす状況のビデオを見たが、まさにあの状態だった。このころからだっただろうか。学級崩壊が問題視され始めていたのは。

尚、美術室のポスターをクラスの生徒が盗ったどうのと言う問題で、明らか犯人だったその子を先生が庇ったからという理由を、中学生になってから知った。些細なきっかけで、クラスと言う物は崩壊するんだなという事を大人な私は実感している。

学校の対策としては、怒ると怖い・・・というかそのまんまでも十分怖いことで有名な算数担当のTT(チーム・ティーチング)(注4)のN村先生を投入。ほかのクラスのTTを一時休止させ担任の先生の補佐につきっきりであたり、荒れたクラスが「表面上は」沈静化した。
ちなみに、後のそのクラスの子の話によると「N村先生は最初怖いだけの先生かと思っていたがいい先生だとわかった。担任の先生はだめだ」とのこと・・・。

6年生のときは、色々な意味で私の転機だった。3年生以降から新聞を作るというものがあったのだが、文字が汚い、絵心0という二重苦の私には、ものすごい苦行で3段階評価のうちのCばかりを連発していたの。しかし、夏休みに図書館で漫画の本を見つけてレイアウトを自分で考えて下手なりに一生懸命に書いたものがA評価をもらった。このことがうれしくて、教室にあった歴史の漫画を読み漁り、歴史の授業で発表したり、班を組んで大型新聞を作ったときに、ネタを提供したりと大活躍した。
思えば、小学校時代の学力はまさにこのころが脂の乗った時代であった。
注3 中学校は教科によって担任の先生が変わるので、それにあやかって他の先生が教室にやってきて授業をするというもの。尚、このとき担任の先生はTTの先生の補佐に回る。
中学校時代 −生真面目さが引き起こした暗黒時代−
中学校時代の話をしたいのだが、ここでひとつ断りを入れたい。この時代は私にとって黒歴史にしてしまいたい事項がかなり多い。本当の所は、あまりお話したくはないのだが、いかに過酷な歴史でもそれは事実であり、それと向き合わないと今、さらには未来につながらないと思うので語っていきたいと思う。

小学校を卒業し、1998年に小学校の近くの市立中学校に進学した。ほとんどの小学校時代の同期の子が、同じ中学校に進学した。私は卓球部の部員になった。

中1のとき、水曜5時間目の学活の時間、俗に言うホームルームの時間で学年をあげて集会をしたり、クラスの中で話し合ったりして「ルールを守るということ」についての話があった。そこでは、「社会に出ると、絶対に許されないことは存在するが絶対に許されることは存在しない。たいていのものは、許される局面と許されない局面が存在する。」という結論で終わった。

なぜこういうことをやったのか今のかというと、私が推論するに、中学校のルールは小学校のそれより厳しいものであるので、何故厳しいのかという説明と所謂ワルを減らす目的があった。たとえば、うちの学校は靴は白で、マークの無い無地の物、私物は持ち込まない云々のルールが引かれていて、先生方も目を光らせていた。元から上から起こられるのが嫌いで、マジメを貫いていた私は、このことに激しく納得しルール遵守を心がけるようになる。

・・・が、そんな意図も何のその。私の学年は中学2年の時から散々荒れてしまう。授業中喋る、荒らす、妨害するは当たり前で少しでも先生が気に食わないと荒らすという傾向にあった。3年生になると、教室内で平気でタバコをすう者もいた。校内暴力もあったし(警察も何回かきたし、見回りもしていた)、全体的に柄の悪い子が多かった。(注3)このことがどうしても許せなかった生真面目な私は、止せば良いのにいろいろと呼びかけを行った。

しかし、これが仇になったのか、いじめられるようになる。もともと、小学校時代に一部の子に結構いじめられて、さらに親にも叩かれていたので、打たれ強くはあったのだが、殴られるのは当然として机を分解されるペンチで殴られるは、いすを投げつけられる教科書をどこかに隠されるなどなどと、散々な目にあってしまった。
「やり返せば?」という人もいるだろうが、私は基本的に運動がだめで喧嘩など、からっきしだめであった。また、さっき話した「何故ルールを守るのか」という話のときに「暴力を振るうことは、社会的に絶対に許されるものではない」ということをやったので、そのときの私はそれを貫いたのである。今になっても思う。愚直な性格やなあ・・・。

ただ、不登校になることはまったくなかった。どうしてもしんどいときは先生に相談して、親身になって対応してくれたからである。いじめを受けている子は、先生や保護者に相談もできず(しても対応がいい加減で)やられっぱなしになり、不登校や悪くすると自殺ということに陥りやすいものなのだが、これが私の強みであった。こういうわけで比較的に私は幸せなほうであった。

この先生方の親切な対応にいたく感激し、私は教職の道を希望するようになる。一方で、中学2年の11月に父親が職を失い、一般企業では危ないので公務員である教職を選ぼうという、ほかの理想に燃えた教職志望者の人に話せば怒られそうな打算的な側面も持ち合わせていたのだが・・・。

学校のほかに、英語と数学は塾に行っていた。小学校のときに行っていた英語教室と同じ会社(国民的人気のポケットから便利な道具を出してくれる青い猫型ロボットの版権元)がやっていて、キャラクター方面で儲けているのでほかの塾より格段に安かったのと少人数制が心強く、数学は火曜日7時から9時15分、英語は木曜日7時から9時とおよそ2時間の内容であった。特に英語は、小学校時代の貯金も手伝って、破竹の勢いで力をつけることができた。塾での単語テストは大体満点近く取れたし、学校でも同じ事をやっているのだから当然満点を連発していた。テストの成績もよいほうで、さらに中学1年で英検4級、2年で3級、中学の最後で英語検定準2級を取れる実力にまで成長した。

勝利の鍵は、小学校時代でやっていたフォニックスである。フォニックスとは、アメリカで使用されている読みの初歩である。初歩的であるが、さっきも言ったようにバカには出来ない。音を知っていたら、スペルを再現でき、スペルを見たら音を再現できるので、音とスペルを1個ずつ覚えるという作業を省略でき、能率的であった。これが単語テストで威力を発揮した。
フォニックスには例外が付き物だが、例外はそのつど地味に覚えていき、例外で点数を落とす事はあったが、最後にはマスターできた。そんなこんながあるので、私は早期英語教育賛成派で、フォニックスを推進している。ただ、英語の実力に関して鼻にかけていた面もあったので、これもいじめられる原因であった。今になって思う。出る杭は打たれるんやな・・・。

まじめな性格を貫いたおかげで、どの科目も平均以上の実力だったので、高校受験が有利に運んだ。まじめな性格は、得と思えた時代がこのときであった。
注4 それまではごく一部のものだけだったのだが、私の代から柄の悪い子が急激に増えた。卒業後も、風のうわさで先生を殴って大怪我を負わせたり妊娠する子が出てきたりという話を聞いたことがある。極めつけは市内で2位の柄の悪さという太鼓判を押されていて、自分の母校ながらお恥ずかしい。尚、2007年現在では治安を回復させたようである。
高校時代前編 −常に論理的であれ!−
私の市は、総合選抜制(注5)をとっており、ものすごく簡単に公立高校に入れた。だから、単独選抜制を取っているお隣の大阪や、神戸の子たちほど苦労してないので学力不足が懸念されていた。家の経済状況が思わしくなかったため、国公立大学を視野に入れていた。このころから塾には一切行っていない。

高校生活は暗黒時代と思っていた中学校生活の100万倍(当社比)面白いものであった。悪ぶれた者はいなかったし、友達も結構できたし勉強のほうもなかなか面白かった。クラブはESS部のみに所属しようかと思っていたのだが、中学時代の先輩に誘われて卓球部にも所属していた。平日のうち月曜日と水曜日はESSに、ほかは卓球部での練習という感じだった。

高校時代というのは、教職を目指す私にとってとても意義深いものであった。まず、高1のころの化学の最初の授業での化学担当のS木先生の言葉に大きな衝撃を受けた。
このとき話題になっていたトピックのひとつに「荒れる成人式」というものがあった。新成人が成人式を荒らすという今でも成人式のたびにメディアで報道される事項であるが、当時S木先生は「若者たちに論理的思考が欠けている。成人式が荒れるのは、若者達がこう言う事をやったらこうなるなとかという論理を考えないからだ。だからこそ化学や物理などを勉強し、論理的思考を培うのだ」と言った。中学時代、いじめられ続けていて思っていたことを代弁したのがこのせりふであった。
このことがあって以来、抜けてるところは多々あるだろうが、「常に冷静に論理的になる」ということを心がけるようになった。

このころになると、我が家にインターネットが本格的に出現した。学校にもネットをやってる子がいて、チャットをしたりした。なお、ブログなどで使用しているハンドルネーム(注6)は、このころから使用し出した

ネットの出現は私にとって大きなものであった。チャットの年齢層は私と大体同じで、意見交換したり他愛のない話をしたりして見聞を広めることができた。勉強におけるライバルも出現したし、私にとってなくてはならないものになった。

ネットの出現により、価値観の多様性を知ることは出来た。しかし、物事と言うのは二面性を孕んでいる物で、よい事ばかりではない。これにより、今までの自分のやってきたことはこれでよかったのだろうかと考えだすようになる。
注5 あらかじめ、高校の校区を振り分けておき校区内の学校に条件がそろえば行けるというもの。条件は、学校の成績500点(換算には中3の2学期時の学校の成績を使う)、市内いっせいに行われる入学試験500点での1000点満点でポイントを競う。なお、内申点+その日のテストで400点あれば確実に入れるというシステムで、受験勉強の変わりに学校の成績を上げまくった私は簡単に校区内の学校に入れた。校区外の学校に行くには、内申点+その日のテストのトータルで市内での順位の10%以内に入れば行ける。極端に成績が悪くない限り、校区内の学校に行けるので競争が無くなるという意図があるが、一方で学力低下が懸念されている。

注6 漫画「遊☆戯☆王」(出版:集英社 高橋和希著)に出てくるカードの名前。当時中学生でいじめられっ子だった私は、友情をテーマにした氏の漫画に勇気を得た。なお、私はこのカードゲームの大ファンでもある。

高校時代後編 −恩師の言葉−
高校2年後半から、本格的に受験を意識するようになる。この時より、神戸大学国際文化学部コミュニケーション学科を目指し勉強を始める。手始めに英語検定2級を取得し、私の年からセンター試験の科目が原則5教科7科目になるということで、学校の授業をみんながサボってる中、まじめに聞いて定期テストの点数を上げて行った。

しかしながら、みんなが楽しくやっているのが、どうもうらやましく見えた。よく「隣の家の芝生は青い」というが私の場合は、「隣の芝生は黄金色の稲穂」に見えてしまうことがあって、自分の悪いところだなと思っていて目下の悩みである。
今のまま、勉強して気乗りしないままで卓球部の部長(注7)をやっているだけで良いのだろうか?もしかしたら今の自分は損をしているのではないか?もっと自分の好きなことをやって、要領よく青春を謳歌できないものだろうか?・・・という感じに悩み続けていた。
ただ、悪いことばかりではなかった。なぜなら、3年からの顧問のS田先生(英語)と相性がよく、受験の時の面倒見もすごくよかったのだから。

高校3年になると、周囲の人間も受験を意識しだす。それに少し焦りを感じることもあったが、担任の先生の励ましもあって勉強に頑張れた。「めりはりを大事にして持続できるように勉強しなさい。」と言われていたので、2時間程度パソコンをやって6時間ほど勉強する毎日が続いた。

塾や予備校に行っていない私は、授業や補習を大事にした。家に帰っても集中できる自信が無かったので学校でそれをまかなおうという目論見だったのである。補習や普通の授業のときの席も先生に頼んで、一番前のど真ん中にしてもらい、先生の視線で集中せざるを得ない環境を作った。

数学と生物は演習の授業だったので、予習と復習は必ずやり、日本史はまだ途中だったので出てきた事項はその日のうちに覚えていく気で取り組んだ。日本史の勉強で役に立ったのが「少年少女日本の歴史」(出版:小学館)であった。全巻揃っており、授業でやった時代の漫画を読んで重要事項はマークし、足りないところは関連事項のコマの外などに書き足していった。教科書とノートを併用して復習もしやすく、夏休みに2年時の復習もできたので、日本史の成績は2年の時よりも上がった。

2学期は一番つらく、勉強の意義を見失い、放棄しかけたことが多々あった。しかし、先生方のおかげで得たものはそれ以上のものがあった。
私は最初受験に使わない科目は勉強せずにいたかった。そんなものやるのは無駄で、受験に使う科目だけ勉強すればよいと考えていた。私の場合、使わない科目は世界史Aであった。

しかし、先生方は「受験に使わなくても勉強しなさい」とおっしゃっていた。私は最初これが理解できなかったのだが、2学期より現代社会の勉強をした時にこれが覆されることとなった。「この事項って世界史で出てこなかったかな?」というのがかなり多かったのである。このとき、先生の言葉が身にしみたのである。「学問とは1つのものだけに打ち込むのではない。広く見識を求めることでさらに知識が深まるのだ。」と気付くことができた。

それに、カリキュラムとして組まれていると言うことは高校生として知っておいてほしいからという意図もあるのだ。高校の目的は、あくまで高等教育を施すこと。大学入試も大事ではあるが、その前提があるのは与えられているカリキュラムをこなしての事なのである。

これが受験で悟ったことの一つである。ちなみに、模試で7割前半だったセンター現代社会は80点を超えた。まさに学際様々であった。

精神的に追い込まれていたときに復活できたのは、担任のY先生のおかげであった。11月のある日のホームルームのとき、先生は進路の話をしていたのだが、そのときに先生はこう言った。「最近の学生は、甘いよ」と。そして、学生時代に、私立大学を奨学金+アルバイトで自力で学費を稼いで出た話を聞いた。「平常期間は、トンカツ屋のバイトをしながら、授業に必ず出て予習復習をきっちりやった。夏休み期間は、アルバイトにいそしみ、道路の誘導係をやったり一日中働いた。それで稼いだお金は、全て生きるための資金にした。

この話を聞いて、私は自らの考えの甘さ(注8)に気づいた。よい人間性を育むには、それほどの努力と苦労を払わなければならない。そして、学力と人間性に満ち溢れた人間になるには、必ず苦難の道を行かなければならない。その事を悟った私は改心し、どこの大学に行こうとも学費は自分で出し勉強することを心に決めた。

また、三社面談の時に話をしたとき在日3世で子供のころ結構いじめられたりした経験があり、教師になることを決めたという話されて、「同じような境遇を受けた私にこそ教員になって欲しい」と言われたのが、今でも胸に残っている。これにより私は完全復活し、勉強に身を入れることができた。
特に英語の実力が一皮剥けて、冬季補習事前テストで優秀なメンバーぞろいの補習受講者内で1位を取り、さらにセンター英語で182点と過去最高得点をあげることができた。つらいことが多かったが、それが報われ自信がついた瞬間であった。

しかし、2日目の国語と数学が入念な準備にもかかわらず、上手く行かなかった。結局、8割を超える科目も多かったが結果は総合点数70%というものだった。
注7 私の代の部員が私しかいなく結局、実力もないのに私が部長となった。人数が少なかったし、大会では勝てないし、好きな事をする時間が削られることに不満を感じていたが、途中でやめることもできずそのまま悩み続けていた。

注8 私の大学生の知り合いは推薦入試でさっさと合格を決め、学費も親に出してもらっていた人が多く、好きなことばかりをしていたのが、とてもうらやましく悔しかった。「隣の家の芝生は黄金色の稲穂」が、発動していたわけである。
受験終期 −絶望の果ての希望−
センター試験の後、二次試験対策のため学校の図書室に朝から夕方まで閉じこもり家でも勉強する日々が続いた。とりあえず、目下の撃破対象と言う事で関西4大上級私立大学2つ(大阪にあるやつと、西宮にある英語で有名なところ)を受けた。また、志望校の近くにある中堅どころの大学と、自分が行く事になる東大阪にある大学を受けた。後者に関しては、センター試験利用と筆記を併用した。

東大阪の大学以外の大学は数学受験で受けることにした。神戸大学も国数英の3教科で受けるので、それにあわせることにしたのだ。
しかし、これが大きな命取りであった。まず、センター数学2の成績が30点と思わしくなく、日ごろの倍ほど数学に打ち込んでいた。高1のころから好きな科目で、いろいろな学校の過去問に目を通し 筆記対策はいい感じであった。一部の問題で答えが出なくても部分点で大きく稼げたので、80点は取れた。これに気をよくして数学で受験したわけであるが、ふたを開けて見るとどこの大学も穴埋め問題が中心に方針転換していたのである。これに調子を狂わされ、国英で合格点に達していたのに、数学の影響でボロボロと最初3つの大学に無残に敗れてしまう。

アテナの聖闘士(セイント)も真っ青のあきらめの悪さ」(注9)をモットーにしていた私もこれには打ちのめされ、またしても精神的どん底に陥るところだったが、Y先生に「目標はあくまでも神戸大学で、それまで一喜一憂したらだめだ」と言われていたし、S田先生にも励まされ1日で復活。なお、「立ち直りの早さはわが高校1」もモットーにしていたので、これに救われた。

そして、活路が開けた。東大阪のほうの大学のセンター利用試験で合格していたのである。そのとき幅広く学んでいた甲斐があったとしみじみと思った。これで精神的不安は一切なくなり、神戸大学受験も自分の実力を出し切れた。結局落ちてしまったのだが(またしても数学が足を引っ張った)、自分の実力を最大限発揮した結果がこれだったので後悔はまったくなかった。

その後、東大阪の大学の英語英米文専攻言語コミュニケーションコースに進学した。私大不合格のときにY先生には、「どこの大学行ってもやることはほとんど一緒で、本人の勉強次第でいくらでも実力はつけることができる。学歴よりも、大学では自分のできることを増やしなさい」といわれており、S田先生には「大学入試なんてお見合いみたいなものだ。どんなにがんばっても落ちるときはあるし、落ちた場合は縁がなかったと思いなさい。合格できた場合は何かしらの『縁』があって入れたのだから、その『縁』を大事にがんばりなさい。」といわれていた。

私はこの恩師の言葉を胸に、大学へ進学し、学問に励む事になる。
注9 元ネタは「聖闘士星矢」(出版:集英社 車田正美著)。特に「十二宮編」が好きで、圧倒的実力差のある黄金聖闘士(ゴールドセイント)に立ち向かう主人公らに自分を受験時の自分に重ね合わせ、このようにあり続けようと信念にした。尚、この頃から文章を書くときに漫画やアニメネタを引き合いに出すようになる。
まとめ −高校時代までの教育史を振り返って−
全般的に言えることだが、生真面目な性格を貫いている。これは、小学校時代に親にも先生にも怒られるのに疲れ果て、怒られないように知恵を絞った結果である。この性格は終始貫かれ、曲がりかけた事はあるものの、いろいろな人が支えてくれたおかげで、曲げることはなかった。

英語力に関しては、子供の頃からの蓄積が大きい。早期英語教育は賛否両論が巻き起こる、昨今の教育業界で重大な議論の一つであるが、私は否定の立場を取ることは無いだろう。なぜなら、早期英語教育を否定することは、自分の英語力を培った大きな要素を否定するからである。細かい部分で点数の浮き沈みは確かにあった。しかし、中学校時代の人より1.5倍(当人比)早い吸収力と、高校時代のセンター試験の結果は自分が続けた不断の努力の結果である。早期から英語を習い、本人が努力を続ければ高い英語力を修得できると、私は自らの経験から断言する。

そして、高校時代までの私は誰かに支えられていた。それは、親であり、友人であり、教師である。特に、高校時代の恩師の言葉は、今の私を支えるバックボーンである。これだけ、色々な人に助けられているのだから、今度は自分が助ける側に立つべきだと考えている。

総合的に見ると、この方面に進んで良かったと思える。しかし、生真面目な性格と学問に打ち込む姿勢は大学生になった後、たびたび問題を引き起こすことになっていく・・・。

私の大学教育史へ

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