私の教育史
大学1〜2年生編

1年間の受験期間を経て、志望校の国立大学には落ちたものの、東大阪のどこかにある大学に進学することに成功した。元々、英語大好きっ子の文系方面だったので、英語が学べて教員採用試験に通ることが出来ればどの大学にしても良かった。高校時代の恩師の言葉を胸に、この大学では精一杯がんばろうと心に決めていた。

ここに、様々な出会いや経験をもたらすこととなった4年間の大学生活が始まった・・・。

大学1年生編 −初心−
まず、大学に進学するのにあたって目標を設定することにした。とりあえず、最大の目標は教員採用試験の合格である。この試験は、非常に通ることが難しいということは最初から聞かされていたので、高校時代最後の担任の先生だった恩師の言うとおり、日ごろの授業にきちんと打ち込む事は守ることにした。

ということで、受験時代の座席、すなわち一番前のど真ん中に座ることはもはや自分の中では常識となっていた。周りの雑音に振り回されることなく、授業内容を一番吸収しやすかったのがそこであったのである。もちろん、広い講義室では浮いてしまうのは当然であったが、元々友達が少なく昔から周囲から浮いていた自分には、そんなものは全く苦にならなかったのである。

また、知識の吸収に貪欲にするためにどの授業も限りなく満点に近づけるように努力した。初回の「教育史」の講義で大学の成績のつけ方は優・良・可・不可に分けられ、不可を取ってしまうと単位は与えられないという説明を聞いた。ならば単位を取るのを目標とせず、自分の履修している科目において端から優を取ることを目標とし、単位を落とすことだけは回避するようにした。こうしておけば、毎日のレポートや講義に貪欲になれるし、内容を聞き漏らすことは自分の中では許されない。こうして、大学の授業における自分のスタンスを確立したのであった。

というものの、自分らしく大ポカもやらかしていた。必修とされる科目を2つばかりほど取りもらしていたのである。履修期間過ぎてから、親切な学生さんが教えてくれたのであるが、時すでに遅しということで変更は利かなさそうであった。このときは非常に真っ青になって、教務課に確認をしに行ったことを覚えている。

とはいっても、大学1年のときはいかに単位を落としても自動的に進級することが可能だったので、何とかならなかったことはなかった。教務課の事務の人には、「2年生になって取り直すように」という指示を受けたのでそうすることにしたのである。こうして、他の人よりも2単位ほどハンディを背負うこととなったが、その分を埋め合わすように単位を取ることとしたのである。

もう一つの懸案事項としては、学費の問題があった。他の人の話を聴いていると、学費出す必要のない学生がほとんどで自分のように自分で学費を出して大学に来ている人間がいなかったのである。自分で学費を出す以上、しんどい思いをする期間は短くしておきたい。更に、他の人にはない苦労をしているのだから、別のところで成功をしたい。私の恩師も通った道なのだし、如何につらくてもやり遂げようという気になっていたのである。

以上のことが、私の大学生活のスタンスとなった。しかし、このスタンスがどうしても周りとの壁を作ってしまうこととなってしまうのであった。

大学1年生編 −大学の勉強の仕方−
大学の勉強は、単位は取りやすいと聞いているが非常に高度で難しいのかなという不安もあった。学部では基礎ゼミと呼ばれる最初のゼミのような授業が必修単位とされていたのだが、そこでの先生(外国人)がおおむねこのようなことをおっしゃっていた。

University is not McDonald. In the shop, cosutomers can choose food and order what they want to buy. And then, shop provides the demanded item. Customers obtain the food or drink by exchanging money for the item.

However, university cannot provide a certain item like the shop. Students are supposed to find thier task by theimselves and make an effort. So, students should be active.

Students in the university are also supposed to be professional. In case of the students of English, you have to check your grammar and spellings in your tasks. You have to offer the reports on time.


以上の英文要約すると、大学というのは自分で課題や目標を見つけるもので、大学からはそうしない限りは知識も供給することは出来ない。学生に求められることは、そうあるように常に活動的でいること。また、プロフェッショナルでいること、時間を守ることが要求される。

私の時期のこの先生は、よく"Be on time. Be professional. Be active"と授業の中でもおっしゃっていた。ただ、こうおっしゃっていた本人がこれを守れていなかったことも多かった気がしないでもなかったが、この言葉も大学時代4年間を支えるバックボーンとなったのである。

また、この私の教育史を書くきっかけとなった「教育史」という授業では、大学の学問についてこのようなことをおっしゃっていた。

これまで、君たちがやっていたのは勉強である。勉強とは、その文字が意味するように「勉めて強いる」もしくは「強いて勉める」ということ。これはしんどいことを敢えてやる(やらせる) ということで本人がやりたいやりたくないに関わらずやらなければならないものだった。

しかし、大学で君たちがやる事は学問である。学問とは、その文字の示すとおり「問い学び、学んで問う」ということ。これは自分の知らないことを自分で見つけて課題を作り、その課題について「考える」事である。その問いかけをする対象は自分自身に対してだったり、教師に対してだったりでも良い。どうしても分からないことがあれば、研究室に来て私に問いかけに来なさい


この言葉を聞いたとき、すごく興奮した。これまで自分がやっていたことと、やらなければならないことを端的に説明したのがこの先生の授業であったのである。

これらの言葉が、自分の学問への探究心に火をつけ、授業に無理をすることなく集中し、更に自分の分からないことは忌憚なく質問するような結果となったのである。

大学1年生編 −覚醒!学問の意義−
大学1年生の時期は、受験終了ということもあってあまり勉強方面には見向きしないのが普通なのだが、目標と意義がはっきりしている自分はその原則を無視して授業に打ち込んだ。受験時代にコツコツと貯めてきた英語力もあり、英語関連の授業ではさほど苦労することもなかった。

特に面白かった授業が、「大学英文法」の授業である。これは、英文法の授業でこれまでやってきた英文法の知識を元に、更に細かい事項について学ぶという授業だった。結構完璧主義なところがあった自分は、とかく正確な英語の使用法に興味があった。この授業で学んだ細かい事項は、ネイティブスピーカーにとっての『正しい』文法について学ぶことが出来たし、それを知っておけば自分でもある程度「正しい」文章が言えて書けるようになるのだから、非常に面白い授業だったのである。

また、フォニックスを知っていた自分にとって「英語音声学」の授業も打ち込み甲斐があった。これまでの自分はフォニックスの知識に基づいて英語を読んでいたのであるが、例外にはどうしても苦しまされていた。そこで、発音記号を読めるようになりたいと思っていたのであるが、この授業で発音記号を学びながら個々の子音や母音の知識と練習が出来たのでネイティブスピーカーのようにしゃべるのが目標だった自分にはうってつけの授業であった。

教職関連については、先にも述べた「教育史」の授業が印象深かった。前者に関しては、日本の教育の歴史を見ることで何が問題を起こし現代の教育に影響与えるのかを知ることが出来た。体罰は昔から禁止されていたこと、寺子屋時代ですら子どもが騒いでいるのが当然だったことなどなど、この授業で知りえた内容は教育観を考える上で非常に役に立った。

そこで得た結論は、全国民に教育を施す上では「管理」は必要であるが、子どもを完全に縛り付けることは不可能だし、荒れる荒れると嘆いているばかりでは何にもならない、むしろ縛れて当然と考えている教員に問題があるというものである。

これに続いて、「学習心理学」の授業も興味深かった。これは、学習のプロセスを学ぶ授業であるのだが、自分の経験とそこでの講義を踏まえた結論は勉強に打ち込むには「意義と目的」が必要であるということである。自分が興味を覚えているものでなければ、自己スキーマに覚える知識が関連付けることができない。勉強で成功したければ、意義と目的を自分の中で見つけなければならない。

生徒に知識を与える上でもこれは同様で、「何故自分はこの科目を教えるのか」ということをはっきりさせなければ生徒に上手い授業は出来ない。私の中では、学問の意義と目的に目覚めることがこれから勉強する上で重要であることを確信する。この意義と目的は、誰かに与えられるものではなく、自分で会得しなければならないもの。意義と目的がはっきりしている間は、如何につらいことも乗り越えられるし集中することが出来る。聖闘士星矢から表現を借りると、意義と目的というのはセブンセンシズなわけである。

ということで、意義と目的を常に考えるようにし、今までの経験から踏まえて今やっている勉強というのは、これから生きていくうえで必要なもの。良い教員になるには知識が当然必要なわけだから貪欲に知識を吸収していく。これが、今までの受験経験から得た自分の意義であった。これを自分の中で意識するようにしていたことがこのときの成功の秘訣である。このときの自分は、十二宮の戦い(受験)を経てセブンセンシズに目覚めた青銅聖闘士のような状態であった。

このほかの授業も、自分にとってはどれも面白い授業で夢中になれた。今まで培った英語力と更にそれを磨いていこうとする姿が学校の授業で反映され、英語関連の授業に感しては大きなアドバンテージとなった。非常にしんどかった受験経験であったが、そこで得た知識が反映されていき、非常に好調な滑り出しとなったのだった。

大学1年生編 −空気嫁−
学問方面ではかように良い滑り出しだったのだが、世の中そう上手くは出来ていないもので当然ながらうまく行かないことも多々あった。自分の場合は、特に遊びや友達作りが非常に困難な事項なのであった。

まず学部方面ではというと、周りが女性が多かったこともあり、女性の苦手な自分にはどうしてもしゃべりかけるのが難しかった。それに、この時期はどうしても遊びに走ってしまう人のほうが多かったので、自分でも誘惑に負けないように、自分からは話しかけないようにしていた。(もちろん、話しかけられたら応対もするし、邪険にすることは絶対にしないという前提の下で)

ただ、英語力を一緒に伸ばす仲間がほしかったというのもあったので、高校時代の恩師の一人であった先生がESS部に所属していたこともあり、このクラブに入部することにする。元々、高校時代もESS部に所属していたし、英語力を伸ばすにはうってつけと伺っていたからである。確かに、英語関連についてはある程度の実力を発揮することが出来、ここでの経験は非常に役に立つものを供給してくれたのは確かである。ここでの経験は大学での生活というのは、勉強ばかりではないということも教えてくれたのであった。

まず、英語関連であるが英語専攻の学生というだけあり、知識の上では非常に順調だった。更に、学部で学んだことを効率よくフィードバックすることも目的としていて、学部でやったことをクラブで活かし、クラブでやったことを学部で活かすという双方向性の学習スタイルを定着できたので英語力が飛躍的に向上した。更に、DiscussionやDebateといったこともやるので、論理的に考えるという作業も要求され、後に役立つことになる。

さて、問題なのが人間関係である。これまでの自分は、ルールとマナーを守りその場で与えられる課題(たとえば学校だったら授業にちゃんと出てテストで高得点を取るなど)をこなせば、何の問題もなく後はどうにでもなると考えていた。ということで、オタクを売りにしてそのキャラクターで持っていったわけである。(注1)

結果というと、やっぱりと言えばそうだが思わしくない。よく先輩に「空気を読め」と後半は言われるようになる。この頃はまだKYという言葉はなかったが、空気を読むという言葉はこの頃から出てきたと思う。インターネットではよく目にしたが、現実世界で言われるとは思っても見なかったのである。

これまでの人間関係は、学校というコミュニティ内のごく小さな部分でしかなかった。クラブもクラブでルールを守ればそれでよかったのだが、大学に入ってから人間関係のバリエーションが増えていき、更にその場その場で要求されることは違うということにまだ気づいていなかったのがこの当時の自分である。

ただ、集団活動のやり方は見習うべきものが多々あったし、どれも正論を付いているとは思った。特に、各方面でゴタゴタを起こすことになるのだが、これはESSで学んだ集団活動をよりどころとしている。ここで上手くやった人は、就職の内定も早く企業で活躍していると聞いているが、こういった集団活動のあり方や上下関係に慣れているから順応が早いからなのだと思う。

他大学との交流もあり色々な人と出会いもあったのもこの頃である。尚、自分の志望していた大学にいる学生さんと話しをしたのだが、「私の志望していたコースはバイトばかりで遊びほうけている人のほうが多かったらしく、行かないほうが正解だ」と言われた。上級といわれる大学だったが、別に今の大学と大差はないんだなと実感したのがこの頃である。

そんなこんなで続けていたクラブであるが、2年の中盤あたりでやめてしまうことになる。このクラブは週3回でなければならないのだが、学費の面からバイトをやめるわけにはいかなかった。安定して収入の入るバイトだったので辞めるわけにもいかず、結局スケジュール調整に破綻をきたし、クラブはやめざるを得なくなったのである。と言っても、やめる頃には新たな目標が出来ていたし、やめるのは苦ではなかった。ただ、クラブを途中でやめたことが後々に影響を与える一つの要因となったのは明らかである。
注1 この頃の自分は、法を守っておけば個人の自由は守られると考えていたので、違法でない限りは人が隠すこともオープンに打ち明けるようにしていた。特にクラブでは、そうあることに努めた。なぜかというと、オタクであることを何故隠さなければならないのか、疑問だったのである。その疑問を晴らすための実験場としてクラブでも、自分のキャラクターを出すことに努めていた。尚、この疑問は後になって解消されるがこれは、後で後述することにする。
大学2年生編 −留学への道−
これは1年生の12月頃の話であるが、この先ゼミの先生になる先生から留学のお誘いを受けた。留学者数がこの年は非常に少なく、枠をもてあますのももったいないということでTOEICのスコアが高かった私がお誘いを受けたわけである。

この頃、学内ではTOEICの試験を無料で行えることが出来た。このテストは1年生の6月に初めて受けたのであるが、このときの成績は総合で630点という結果であった。このときの点数で留学の誘いが来たのであるが、このときの私にはさほどよい点数には見えなかった。また、12月の試験では700点に上がったのだが、これでも本当に良い点数なのかわからなかった。このときは、周囲の人間が何点取ったどうのというのには全く興味はなく、興味があったのはむしろクラブで如何に活躍するかどうかであった。

このときは、ESS部のほうが忙しかった上に家庭状況も留学できるほどお金があるかどうか分からなかったという理由で、断りの返事を出したのだが、今の自分の実力で留学が出来るのだなという実感を持ったのがこのときであった。ということで、留学を視野に英語の勉強を始めるきっかけを作ったのがこのときである。

この後もマイペースに授業を受け続け、ほぼ目的どおりほとんどの科目で優を取得することが出来た。ただ、優を取るのが目的ではなく知識を吸収し、技能を磨くというのが私の目的だということは常に頭に入れ続け、2年次もこの成績以上を取れるようにがんばることにした。

大学2年生編 −英語王誕生!−
しかし、事態を急変させる最初の人物が登場する。私が大学1年生の頃に私の誘われた留学プログラムに参加していた学生さんと仲良くなった。このとき、彼は3年生だったのだが、留学から帰った後TOEICで955点を取得するという脅威の実力を誇った。学内でもかなり有名となったこの人物と、授業のつながりで仲良しになったのがきっかけで、私の留学への執着が始まる。

英語のプロフェッショナルとなるのだったら英語関連の資格試験に端から好成績を出していかないと、専門性を証明できないと私は思っていたので、まず学内で受けるTOEICの点数を伸ばそうと思った。また海外経験もあったほうがよいとにらみ、留学に向けて本格的に準備を開始したのである。

TOEICへの対策として、Writingセクションに関しては持ち前の文法の力と読解力で何とかなっていたので、Writingセクションよりも点数の低いListeningセクションの点数を上げるのが課題となった。そこで威力を発揮したのがリスニングUの授業が必修で取ることとなっていたが、そこでやったShadowingの練習方法にはまる。先生に頼んで授業で使ったファイルをメールにて送信してもらい、この頃手に入れたmp3プレイヤーに保存し、通学時などの暇なときに英文を聞いたりその練習を実践していたりしていたのである。

また、しんどい練習方法としては検定対策講座Uでやった音読筆写というトレーニング方法を活用した。こちらは忙しい合間を縫ってちびりちびりやったのだが、これも英語力を伸ばすのに力となった。

リーディングUの授業では、「リーディング」という授業名が付いているにもかかわらず、なぜかナチュラルスピードの英文をディクテーションしたりする授業ということで、これも他のトレーニングと同じく威力を発揮した。

そんなこんなで2005年の6月のTOEICの試験である。これらのトレーニングを始めて2ヶ月程度しか経っていなかったので、さほど点数は伸びていることはないだろうと踏んでいた。しかし、先行して先生が教えてくれた結果は以下のとおりである。

Listening・・・390
Writing・・・415

合計・・・805

前回の700点を105点も上回った圧倒的な伸び率にその場で歓喜したのを覚えている。この点数までたどり着いた人は学年ではこの時点で私だけで、学年では1位という結果になった。というわけで、このTOEICの点数で留学への道が「確定打」となった。

このとき、勇者王ガオガイガーにはまっていたのだが、こちらから表現を借りて「英語王」(注2)と自称していた。ブログでも結構この表現を使っていたと思うが、今まで勉強関連では「上位」ではあったが、「1位」ではなかったからなのである。初めて1位になれた喜びが非常に強かったのがこの時期で、まさに努力に対して結果が付いてきてくれていたのである。。
注2 もちろん、学年で一位になった喜びからネーミングが付いている。しかし、劇中のガオガイガーが未完成で不具合だらけであったように、自分はまだ未完成でまだまだこれから勉強し続けないといけないということは自覚していた。ということで、謙虚な姿勢も求められるという自戒もこめた表現なのである。
大学2年生編 −1日12時間勉強できますかー?−
かように良い結果を出すことが出来たが、先にも述べたようにもろもろの事情でクラブ活動を辞めることとなった。個人的に一度やると決めたことを途中でやめることとなったのが非常に悔しかったので、留学に関しては必ず良い結果を出すように努めることにした。

後期の授業では、教職も含めて1時間目から5時間目まで授業がぎっしりという日が2つほど出てきた。また、時間的に余裕のある日は、バイトに割いた。クラブという縛りがなくなったので、授業とバイト面でも多少の無茶が利くようになり、クラブをやめた反動から学問によりいっそういそしむことになる。

ただ、具体的な目標もなしに努力するのは効率がよろしくないと思ったので、目標を設定することにした。まず、英語面ではTOEICで900点以上を必ず取るということ。また、グローバル化が叫ばれる中で国際人としてどうあるべきなのかを知りたいということ。主にこの二つに焦点を当てて学びたいなと考えていた。

クラブをやめてからある程度の暇な時間が出来たので先にも述べた学生さんとその友達と深く交流を持つようになる。この人とは、「英語学概論」の授業で知り合い、授業中も二人してよく意見を出していた。この授業で、私は言語学に興味を持つようになる。特に、チョムスキーの生成文法の話や、ソシュールの認知言語学の話は面白かったし、授業で提示された言語観を使用して言語現象を観察するという作業が私の感性にフィットしたのである。

また、丁度その頃その学生さんが大学院進学を考えていて、ゼミの先生と遅くまで残って勉強会をしていたので、先生に頼んで途中から参加もしていた。この勉強会も含め、朝から夜までずっと学校にいる日がザラに出てきて、ついに受験時代になしえなかった1日12時間勉強ができるようになっていた。

この頃の学力は、大学時代の中でも絶頂を極めていて、「英語化教育法」の授業では、英語学力テストで1位を取ったり、英語学概論の期末テストでも1位を取ったり八面六臂の活躍をしていた。まさに、努力に結果が付いてきていた良い状態であった。尚、こういったこともあり、自分の行きたいゼミは言語学で確定した。

そんなこんなで熱心に勉強にいそしんだ結果とTOEICの高得点が良い相乗効果をもたらし、1年間の留学コースが決定し、ついに世界進出が決定した。留学時の面接でも「君はトップクラスの学生だから何の文句もないね」と、前の基礎ゼミの先生にも言われ、出発前にも「うちの大学を背負って立つような学生になって帰ってきてほしい」とゼミの先生にも言われた。

その他もろもろの細かい手続きを経て、私はオーストラリアへ留学することとなった。

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